【#10】『沈黙-サイレンス-』:「主よ、あなたはなぜ黙ったままなのですか」
Posted on 7月 31, 2017
約250年後に宣教師が日本に戻り、長崎では数万人のキリスト信者が公の場に出て、教会は再び栄えることになりました。「日本のキリスト教共同体は、隠れていたにもかかわらず、強い共同体的精神を保った」ことを、現在のバチカンのフランシス教皇(Pope Francis)は、讃えたのです。(2016年3月)映画でも表現されていましたが、仏教徒を装いながら、キリスト教徒であり続けたのでした。その精神的強さが、マーティン・スコセッシ監督には「脅威」でもあり、畏敬の念を持ち続けて映画化を切望したのだと思います。
前回確認したように映画『沈黙』では、1640年に日本で布教活動をしていたイエズス会宣教師フェレイラが、激しいキリシタン弾圧に屈して「棄教」(信仰を捨てること)したことを知った、フェレイラ神父の弟子、セバスチャン・ロドリゴ神父がその真偽を確かめるために日本にやってくる場面から始まりました。

そのロドリゴ神父も、結局、自分を慕う信者たちがひどい弾圧を受けることを凝視できずに、「棄教」して「岡田三右衛門」として、恩師同様に日本人としての生き方を選んだのでした。ただ、死後棺桶に入れられたロドリゴの手には、長崎の信者からかつてもらった手作りの十字架を持たされ、彼が決して棄教していなかったことが知らされるのです。観客は、その場面で安堵すると同時に、キリスト教信仰の強さに圧倒されると思います。
長崎市にある遠藤周作文学館には、「出津文化村」の一角で、海をみおろす場所に文学碑が建立されています。その石碑には、遠藤周作の言葉「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりにも碧いのです」が刻まれています。映画で最も圧巻だったのは、水磔刑の場面でしょう。「主よ、あなたはなぜ黙ったままなのですか」と問わずにはいられない場面で、長崎の潜伏キリシタンの人々の、心の強さに絶句するしかないのでした。

このコラムを読んで下さりながらも、強い信仰心を持たない方の場合も、欧米文化を知るうえでキリスト教に関する知識は必要かもしれない、と思い始めてくださるとしたら、それは大変光栄なことです。そうした方々のために、最後に二つ、『沈黙』関連でキリスト教に関する「へえ~」(AHA)をお届けして、夏休み前の「宿題」を閉じたいと思います。