【#20】「L.A.コールドケース (City of Lies)」
Posted on 8月 18, 2022
この映画は、コロナ禍前に完成していたのに、LAPD(ロサンゼルス市警)からの圧力なのか、全米でも劇場公開できずネット配信だったようです。やっと日本に来たと思ったら、上映館の少ないこと・・・。残念ながら、埼玉県で公開映画館はありません。池袋までお出かけ下さい。
ウィル・スミスがラッパーだったことを知らない若い世代は、ジョニー・デップと言えば、ディズニー映画『パイレーツ・オブ・カリービアン』のジャック・スパロー(スパローの意味を知らない学生がいて唖然・・・)を思い出すだろう。
20世紀からファンだという方々には、『シザーハンズ』や『ギルバート・グレイプ』(これはレオナルド・ディカプリオのほぼデビュー作)を思い出すかもしれない。彼が気骨ある映画人だと私が実感したのは、監督、主演した『ブレイブ』だった。
カンヌ映画祭での記者会見で、「財布に入っている20ドル紙幣の男が何をしたか知っているか」とアメリカ人記者に問いかけた。この映画は、先住民の若者の苦悩を描いた作品で、先住民チェロキー族の血を持つデップは、先住民の現状を記者たちに訴えたのだった。
トランプ前大統領の横やりが入って、黒人女性ハリエット・タブマンが登場するのが遅れているが、長く20ドル紙幣には第7代大統領アンドリュー・ジャクソンが描かれていた。彼は“Indian Hater”と呼ばれ、先住民との戦争で多くの先住民を虐殺して英雄となり、大統領となった人物だった。世界史の教科書では「涙の道」で有名・・・。
ディズニー映画出演が続いたデップも、映画『MINAMATA―ミナマタ』で写真家ユージン・スミスを熱演して、彼の本領発揮を目撃できた。今回の映画『L.A.コールドケース(City of Lies)』でも、実在のLAPD刑事ラッセル・プール役は見事だった。
ウィル・スミスのグラミー賞受賞スピーチで、「二人の先駆者(two prophets) 2パックとビギーに捧げる」と発言した1990年代のアメリカ・ラップ界を代表する東西二人の「雄」を確認しておこう。東海岸を代表したノトーリアス・B.I.G.(notoriousとは悪名高いという意味)は、本名はクリストファー・ウォレスで、プール刑事は本名で呼んでいた。この映画で、いわゆる刑事の「相棒」となる黒人ジャーナリスト、ダリウス・ジャック・ジャクソン記者との初対面でも、本名で呼ぶよう命令していた。
ジャクソン記者は、1995年3月に2パック(母親はBlack Panther党員。獄中で息子出産。母から黒人であることの誇りを教わったことを歌にしたのが♪Dear Mama)が銃弾に倒れた半年後、1996年3月にB.I.G.が射殺されたことで、B.I.G.を批判する記事「東西抗争」を書いた黒人記者だった。迷宮入り(コールドケース)したとされる、この二人の射殺事件を追い続けつつ退職したLAPDプール元刑事に、ジャクソン記者はこの記事で「ピーボディ賞」受賞したことを知らせた。
ピーボディ賞とは、放送界のピューリッツァー賞とも称される賞で、コラム#18で紹介した黒人女性ジャーナリスト、シャーローン・ハンターゴールト(ニーナ・シモンの歌♪To Be Young, Gifted and Blackに勇気づけられたエピソード紹介)も受賞経験があった。
B.I.G.の母親ヴォレッタ・ウォレスと連絡を取り続けていたプール元刑事は、ジャクソン記者を連れて母親に会い、B.I.G.を批判した記事の非礼を詫びたのだった。「相棒」ジャクソン役を演じたのは、黒人俳優フォレスト・ウィテカーである。
『ラストキング・オブ・スコットランド』(2006)でウガンダ元大統領イディ・アミン役を演じてアカデミー主演男優賞を受賞、実在のホワイトハウスの執事を描いた『大統領の執事の涙』(2013)でも主演した。ホイットニー・ヒューストン主演『ため息つかせて』(1995)で監督デビューもしている。
LAPDの汚職事件、ラッパー二人が所属した東西のレコード会社間の闘争、軋轢など映画の内容紹介は最小限にして、プール刑事が事件を追いかけた1990年代の10年間の説明をしておきたい。
1995年と翌年の二人の射殺事件が起きる前、1991年3月3日に、黒人男性ロドニー・キングがLAPDの白人警官に暴行を受ける事件があった。その様子を撮影したホームビデオがメディアに流れて、明るみに出たのだった。
実はこの3月(湾岸戦争真最中!)、筆者は前任校(東京女子大学・研究助手)で獲得していた科学研究費(個人奨励研究)処理のため、ワシントンとニューヨーク(ハーレムのションバーグセンター初訪問!)で史料収集を行った。
当時12歳の息子と8歳の娘を置いて出かけ、「決死の覚悟」の仕事を重ねた。4月から浦和短期大学への異動が決まっていて、次の渡米時期の保障もないままに日本では入手できない史料の山に囲まれて驚喜しつつ、必死で仕事をしたのだった。(結局このあと4年間渡米できず、この時の史料で論文執筆を続けた)
ニューヨークとは違ってワシントンでは、日が暮れる前にホテルに戻ることは必須で、大した食料も入手出来ないままホテルに戻って、史料が入って重いリュックをベッドに置き、テレビをつけたのだった。夕方のニュースで、白黒映像が流れていた。「どうして、今頃公民権運動の映像を流すんだろう?」これがその時の素直な感想だったが、1960年代の映像ではなく、1991年3月の西海岸ロサンゼルスでの映像だったのである。
年度が変わり、浦短英語科専任講師となって1ヶ月、初めての大型連休が始まる「みどりの日」(当時、現在「昭和の日」)に、歴史上「LA暴動」と呼ばれる事件が起きた・・・。ワシントンで見た映像で、ロドニー・キングに暴力を振るっていた白人警官が白人居住区裁判所の陪審員によって無罪となったために、ロサンゼルスは燃えあがったのだった・・・。
「LA暴動」の時期には生まれてもいない、それどころか2001年「9月11日」も知らない学生たちが、やっとウクライナ侵攻で戦争を目撃する現実に向かい、30年以上大学教壇から世界の「火の手」を見続けていることを憂いつつ・・・。
コロナ禍3年目で身動きできないまま東京で酷暑の夏を迎え、やっと夏期休暇に入ったばかり・・・。明日は77回目の「終戦記念日」、沖縄返還50年目の夏でもある。
気になりながらも、未完のまま仕上げられなかったコラム#18に加えて、#19、#20と、3本まとめて書き上げたので、やっとこれで、今夏の原稿書きを始められる・・・。ウクライナ侵攻が起こらなければとっくに脱稿できるほど、春休み中に集めに集めていたビリー・ホリデイをめぐる史料を、やっと読み直す時間を作ることが出来る。紀要論文を1本仕上げなければ・・・。
どうか皆さんも、実り多き夏をお過ごし下さい!