【#17】「AMAZING GRACE:ARETHA FRANKLIN」
Posted on 7月 19, 2021
ご挨拶が遅れましたが、HPの主である岩本裕子[ひろこ]は、2021年4月から浦和大学で学内移籍して、所属が変わりました。こども学部こども学科から社会学部現代社会学科の教員となりました。管理職としての図書・情報センター長は7年目に入ります。
ご無沙汰のご挨拶が長くなりましたが、映画コラムに移ります。前作#16(NYPL)に続いて、今回も映画ではなく、ドキュメンタリーです。お楽しみ下さい。
1972年1月、ロサンゼルス市南部のワッツ地区(黒人居住区、1965年8月の「暴動」が有名)にあるニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会(New Temple Missionary Baptist Church)で、ライヴ・コンサートが開かれた。コンサートは二晩にわたり、同教会の聖歌隊であるサザン・カリフォルニア・コミュニティ聖歌隊(The Southern California Community Choir)との共演となった。コンサートとは言え、黒人教会の礼拝形式のままで、ジェームズ・クリーヴランド牧師による司会進行で、黒人教会の説教を聞くようでもあった。
その録音は、同年6月に2枚組LP「至上の愛~チャーチ・コンサート~」となって発売され、このLP(21世紀の大学生は知らないでしょうね)は、アレサにグラミー賞最優秀ソウル・ゴスペルパフォーマンス賞をもたらした。200万枚を売り上げ、ゴスペルのベストセラーとなったのだった。
LPだけでなく、ドキュメンタリー映像として公開されるはずだったが、制作上の問題から46年間「お蔵入り」となったという。映像の監督は、1972年当時、新進監督だった故シドニー・ポラック(筆者のお薦め作品は『追憶』[1973]と『ザ・ファーム/法律事務所』[1993])が務めた。映像初期には、監督が打ち合わせしている様子も流れていた。監督だけでなく、多くのカメラマンがカメラ片手に教会内を動き回る様子が残っていた。21世紀の技術によって問題を克服して、幻の音楽ドキュメンタリーが幻でなくなったことを喜びたい。誰よりも天国で、アレサ本人とポラック監督が一番喜んでいるに違いない。
観衆のなかには、ローリングストーンズのミック・ジャガーやチャーリー・ワッツもいて、ミックは誰よりも先に立ち上がって手拍子を打ち、周りの人たちに立つことを促してもいた。彼らへのインタビューもポラック監督の映像には残っていたのだろうか。残念・・・。
この映像に関しては、アレサ・フランクリンを含んで多くのプロデューサーが存在するが、その一人の名前を最後のクレジットで確認する前に、ドキュメンタリー開始当初に確認することが出来た。このドキュメンタリーの制作会社として、FORTY ACRES AND A MULE FILMWORKS のマークが登場したためだった。思わず、「スパイク・リーも関係したのかしら」とつぶやいた・・・
1979年にスパイク・リー監督によって創設された制作会社で、「40エーカーの土地と騾馬一頭」という意味だが、アメリカ黒人史にとって重要な歴史用語である。南北戦争終了2年前に奴隷解放宣言が出されたとき、解放黒人一人一人に渡されると噂された表現だった。これは全くの噂に過ぎず、解放黒人は戦後、着の身着のままで農園を出て行くことになる。リー監督がこの歴史用語を選んだのは、「白人からの空約束」といった非難の意味を込めたのではないだろうか。
「白人のハリウッド」に抵抗して「黒人による黒人のための黒人映画作り」を実行したスパイク・リー監督作品に関しては、1999年出版の拙著『スクリーンに見る黒人女性』158~174頁を読んでもらえれば幸いである。この本にはもちろん登場しない最近の作品として、『ブラック・クランズマン(2018)』なら、すぐにでもネット上で見られるだろうから、検索してみてほしい。「クランズマン」とはKKKのこと・・・。
映像に関する詳細は、ここまでとして、ぜひ若い世代にこのドキュメンタリーを観てほしい。観ることは、黒人バプティスト教会の礼拝に参加することにもつながり、少々困惑するかもしれないが、これこそ黒人教会!ぜひ経験してほしい!!
アレサに関して、これまで随所で紹介してきた。このHPでの掲載論文や、拙著から紹介文を選び加筆修正してみた。改めて、アレサ・フランクリンというゴスペル歌手に関する情報を共有してもらいたい。まずは、訃報から・・・
2018年8月16日早朝(アメリカ時間)黒人女性歌手アレサ・フランクリン(1942-2018)が亡くなった。危篤状態にあることは数日前のニュースで知らされていたが、訃報は当日の全米メディアのトップで紹介され、夜には特集番組が組まれた。

同日、ニューヨークで史料収集中だった筆者が、アレサの訃報を知ったのは、ニューヨーク公立図書館ハーレム分館のションバーグセンターのカウンターだった。閲覧室での仕事の合間、蔵書貸し出し手続きのためにカウンターの前を通ったところ、アレサが表紙になった『EBONY』(写真1)が飾られ、薔薇の花が一輪供えられていた。「亡くなったの?」となじみの司書に聞くと「ええ、今朝…」と。

「ハーレムの習慣として、こうした偉大なミュージシャンが亡くなると125丁目のアポロ劇場では一晩中追悼の時間がもたれる」ことも教えてくれた。ニューヨーク中から125丁目に人が集まり追悼することを知り、筆者も仕事を早く切り上げて訪ねてみることにした。そのときの写真をご覧に入れよう。日も暮れる前だったが、すでに多くのファンが集まり、アレサの歌を流して集った皆が歌っていた。先を急ぐ筆者はここまでだったが、この日の夜のニュースでは深夜になっても人が絶えない様子が中継されていた。

2009年1月20日オバマ大統領第1期就任式において、大統領がファンだということで祝賀歌唱を依頼された「ソウルの女王」アレサ・フランクリンは、誇らしく高らかに歌った。アレサが選んだ曲は、1939年にマリアン・アンダーソンが、リンカン記念堂前で開催された野外コンサート(黒人歌手のためコンサートホール使用を拒否されたことでFDR大統領夫人のエリノアが野外コンサートを企画)で歌った曲の一つ「America (My Country ’Tis of Thee)」だった。
アレサはバプティスト教会の有名な牧師の娘として、1942年にテネシー州メンフィスで生まれた。育ったのはミシガン州デトロイトだった。父はC・L・フランクリン牧師、母は歌手でピアニストのバーバラ・シガーズだった。アレサは生まれつきピアノの才能があり、神童のようだった。歌の才能も合わせ持ち、早くから音楽業界に入って、14歳の時には最初のアルバムを出していた。1960年代の終わりには、「ソウル ・シスター・ナンバー ・ワン」と呼ばれるようになり、現在の形容表現「ソウルの女王」の基盤を作っていた。1968年の「RESPECT」で最優秀リズム&ブルース(R&B)録音賞を取ったことを皮切りに、R&B部門ばかりか、ゴスペル部門でも受賞し、グラミー賞18個を受賞した。
合衆国で民間人に対するもっとも名誉ある勲章、大統領自由勲章を、アレサは2005年に受賞した。アレサが登場する映画の代表的作品は、『ブルース・ ブラザース』(Blues Brothers)だろう。1980年に映画化されて、ブルース好きにとって伝説の作品となった。1998年には続編『ブルース・ブラザース2000』が作られた。前作へのオマージュの部分がちりばめられて、ファンには大満足の作品となった。
アレサ・フランクリンは、2作とも同じ役柄で登場した。ギター・プレイヤーのマット・マーフィーの妻役で、役名「マーフィー夫人」である。夫のマーフィーは、妻の許しを得て仕事を中断して、ギタリストとしてブルース・ブラザース・バンドに参加するのだった。アレサの役は、前作ではソウル・フード屋の女主人だったが、18年後には少し出世して車会社の女社長になっていた。
アレサが歌うときに3人の黒人女性がバック・コーラスでつくのは、2作に共通する。前作でこの4人が歌い踊ったのは「THINK」だった。1968年米国ヒットチャートで第7位、米国R&Bでは第1位を獲得したアレサの大ヒット曲だった。続編で自らの車会社内でアレサがバック・コーラスとともに歌ったのは、「RESPECT」だった。これは、1967年第1位を獲得した大ヒット曲だった。
今回のコラム#17の対象となった AMAZING GRACE:ARETHA FRANKLIN は、こうした大ヒット曲を連発した、押しも押されもしない Lady Soul あるいはQueen of Soul となっていた1972年のコンサートだった。この映像が46年の時を経て日の目を見られたこと、世界中の映画観客が黒人バプティスト教会を訪ねられたこと、を何よりも喜びたい。
アレサ、貴女の長年のファンは当然ながら、貴女のことを知らなかった若い世代たちも、このドキュメンタリーを観て、貴女の虜になったことでしょう。どうか安らかに眠って下さい!アーメン・・・