岩本裕子研究室

PROFESSOR HIROKO IWAMOTO'S OFFICE

映画コラム#24 『クワイエット・プレイス:DAY 1』と『それでも夜は明ける』: 黒人女優ルピタ・ニョンゴ

Posted on 8月 15, 2024

今年初めて競技種目となった「ブレイキン」に関しては、またいずれお話ししなければなりません。昨年9月、3年半ぶりに訪問したニューヨーク・ハーレムのションバーグセンター閲覧室には、「ヒップホップ誕生50年」の展示がありました。ションバーグセンターがあるハーレムの北のブロンクス区で、1973年8月黒人男子達が、路上で暇つぶしに遊んでいたのが「発掘」され、ラップ(ヒップホップ)として、紹介されたのが始まりです。ヒップホップ誕生51年目の今年、オリンピック種目となったわけですね。

アメリカ大統領選挙に目を向けると、「このままトランプに押し切られるのか~」と絶望的になっていた頃、ジョー・バイデンが出馬断念を発表して、当然のように副大統領カマラ・ハリスを後任に推薦したのです。アメリカ黒人女性史研究者の筆者にとっては、気持ちは複雑ですが、他の選択肢はないので、「トランプに戻らなければいいか・・・」と静観しています。

「黒人女性」が、アメリカ史上初めての「女性」大統領になる可能性が出たのですから、喜ばなければ・・・。ただ、黒人女性として初めてのファーストレディとなったミシェル・オバマと、カマラ・ハリスは、「似て非なる」存在です。

前者が「奴隷の子孫」であるのに対して、カマラは、「人種的に黒人」というだけです。父親はジャマイカ出身、母親はインド出身で移民2世として生まれ育ったカマラは、人種は黒人、アジア系、さらに女性、というこれまでのWASPの大統領(例外はJFKとオバマ)とは、大きく異なる存在であることに違いありません。11月5日(火)の大統領選挙まで、その動きを凝視していきましょう。

今回の映画コラムでなぜ、このような長い「前置き」が必要なのか・・・。

今回対象とする映画2本で重要な役をこなした黒人女性ルピタ・ニョンゴが、「奴隷の子孫」ではなく、アフリカ系アメリカ人であるためです。ケニア人の両親の元にメキシコで生まれた女優ですが、彼女の詳細な経歴は、後述します。

厳密に言うと、カマラ・ハリスは、「アフリカ系アメリカ人」でもないのです。ルピタ・ニョンゴは、最後に紹介するように、ケニアにルーツを持つアフリカ系アメリカ人であることに変わりありません。2008年大統領選挙で、バラク・オバマが候補者となったときに、大きく問題になった「奴隷の子孫」であるかどうか、つまり、「奴隷の子孫」集団であるアメリカ黒人社会から受け入れられるかどうかは、もう問題ではないのかもしれません。時代は変わっていくのですね。

では、映画紹介を始めます。まず、7月5日(金)の私からのLINE投稿をコピペします。

こんなLINEをしたあと、「何か忘れてない?」と自分に問いかけつつ、前期末に忙殺された1ヶ月を過ごして、やっとやっとの夏休み・・・。ああ~、ルピタ・ニョンゴに関して、8年前の論文で言及していたことを思い出したのです!

2016年のトニー賞授賞式を見終えたあと、2015年のブロードウェイ演劇“Eclipsed”で、主演女優賞候補となったルピタに言及していたことを、忘れていた私・・・。2013年の映画「12 Years a Slave(それでも夜は明ける)」で、ケニア人としてばかりかメキシコ人としても最初のアカデミー賞女優となったルピタのことを、A Quiet Place: Day One を観ていた100分間、明確に思い出せなかったことが、悔し~い私・・・。

夏休みに入ったので、皆さんがウェブ上で観られるだろう映画「12 Years a Slave(それでも夜は明ける)」を少しだけ紹介します。

なんと、第86回アカデミー作品賞受賞作でした!実在した黒人男性の伝記に基づく作品で、実話なのです!1841年、奴隷制度廃止前のニューヨーク州サラトガで、自由証明書で認められた自由黒人で、白人の友人も多くいた黒人バイオリニストのソロモン・ノーサップが主人公です。ある白人の裏切りによってソロモンは拉致され、奴隷としてニューオーリンズへ売られ、12年間の壮絶な奴隷生活を送ったのでした。この農園に、ルピタが演じた奴隷女性パッシーがいたのです。

最後に、今、開いているHP「岩本裕子研究室」の論文項目に掲載されている『浦和論叢』第56号pp.43-44 を以下に再録します。ルピタの詳細をご確認下さいませ。

この夏が、皆様にとって、例年のように「考える夏」だけでなく「学びの夏」となりますように!!!


「岩本裕子:2016年夏におけるアメリカ黒人女性の諸相」(『浦和論叢』第56号pp.43-44)

4.1 アフリカ女性の告発劇“Eclipsed”とルピタ・ニョンゴ

2016年6月12日、マンハッタンのビーコン劇場では、第70回トニー賞授賞式が行われた。直前にオーランド(Orlando, Florida)で起こったテロ行為に関して、司会者から被害者に献辞を捧げることで式は始まった。今回のトニー賞では黒人女優の活躍が大きく評価され、その結果を残すことができた。その「黒人」と言う場合、アメリカ黒人女優に限定しない、人種的な「黒人」を意味することになる。

ルピタ・ニョンゴ(Lupita Nyong’o)は、ケニア人の両親の元1983年にメキシコで生まれた。父親はケニアの政治的指導者で、政治的不安定を理由にメキシコへ移っていたが、ルピタが子どもの頃にケニアに戻り、祖国で育った。大学教育は、アメリカ合衆国(イェール大学演劇学部)で受けて、映画や演劇を学んだ。子どもの頃に見た映画「カラー・パープル」のウーピー・ゴールドバーグとオプラ・ウインフレイの演技に強く影響を受けたと語っている[41]。

ルピタの人生は、映画「それでも夜は明ける」(12 Years a Slave:2013)の助演女優パッシー役のオーディションを受けたことから大きく変わり始めた。共演俳優から「若い奴隷だが、人間としてすごく特別なエネルギーを放つ。一種の優雅さを持って働く。物腰やプライドや仕事ぶりに荘厳な雰囲気があり、エネルギーに満ち溢れている。ルピタはこの役にぴったりだ」[42]と評価されたパッシー役で、アカデミー最優秀助演女優賞を受賞し、ケニア人としてばかりかメキシコ人としても最初のアカデミー賞女優となったのだった。

デビュー作で一躍有名になったルピタだが、すでに2009年に監督・編集・制作に携わった長編ドキュメンタリーを世に問うていた。アフリカ諸国で多くの患者が危険な状態に置かれている先天性色素欠乏症(albino)のケニア人8人を追ったドキュメンタリー“In My Genes”だった。この仕事が契機で、イェール大学への進学を決めたとのことである[43]。家庭環境などから意識高く育てられたルピタが、2015年にブロードウェイ演劇“Eclipsed”を出演作に選んだことは納得できる。

“Eclipsed”の脚本家は、ダナイ・グリラ(Danai Gurira)というジンバブエ系アメリカ人である。南ローデシア[当時]からアメリカ合衆国へ移民した両親の元、1978年にアイオワ州で生まれたダナイは、5歳のときに家族と共にジンバブエと改名し正式に独立した祖国へ帰った。その後大学教育を受けるために、合衆国に戻り現在に至っている。脚本家だけでなく、女優も続けていて、テレビのホラー番組“The Walking Dead”の Michone 役で人気がでて、2016年度NAACPドラマシリーズの俳優イメージ賞候補にも選ばれた[44]。

劇“Eclipsed”は、俳優もスタッフもすべて黒人で、女性の想像力に満ちたチームで作られ、オフ・ブロードウェイで始まり、その圧倒的な人気のお陰でブロードウェイへ進出できた。2016年度トニー賞では、ダナイの脚本とルピタの主演女優を含む5部門の候補に選ばれ、衣装部門が最優秀賞を受賞した。

リベリアでの第二次内戦中の混沌とした状態が舞台で、内戦兵士とその誘拐された妻たちの話である。3人の妻たちにはそれぞれ名前がありながら、兵士からは番号で呼ばれて、性的虐待を受け続けていた。そこへ4人目の妻が連れてこられる。誘拐された少女で、名前は知らされずNo. 4と呼ばれる。『ニューヨーク・タイムズ』の評者はここで「ナイジェリアで過激派イスラムグループ、ボコハラムによって何百人もの高校生が誘拐されたことを我々は忘れてはならない」と加筆している。このNo. 4の役を演じたのが、ルピタ・ニョンゴだった。「今シーズンのブロードウェイ演劇で、もっとも光を放ち、人間性を否定されるような役柄を演じながらも、その苦しみを超えて余りある思いやりと共に輝いていた女優」と評価されていた[45]。

ルピタは、オスカー女優となった後には、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(StarWars: The Force Awakens)で、CGI再現によるしわだらけの酒屋の女主人「マズ・カナタ」(Maz Kanata)役を演じたり、マーベルコミック初の黒人ヒーロー「ブラック・パンサー」[46]のスピンオフ映画で、ヒロイン役で出演予定とか、話題作への出演が続く[47]。これからの活躍は保証されているようだが、彼女の映画人としての意識の高さは、ドキュメンタリー“In My Genes”を制作したり、“Eclipsed”に出演したりしたように、アフリカという出自から離れることなく、成長し続けることだろう。

ダナイ・グリラもルピタも、ジンバブエやケニアといったアフリカ人であることに誇りを持ち、同時に「奴隷の子孫」というアメリカ黒人ではなく、アフリカ系アメリカ人としての意識も持ちながら自らの才能を伸ばし続けることだろう。